涼宮ハルヒの接吻
夏といえば暑いのが相場であるが、それは今日のこの時においても例外ではなく、暦のうえでは秋という事実は現実の前に全く持って無力であった。 ノックに返事が無いのを確認して文芸部室のドアを開けた俺の視界に入ったのはいつも通りに淡々と読書をしている長門の姿だけで、その暑さを微塵も感じさせないような無表情には涼やかさすら感じさせるものがあったが、それはそれとして暑いものは暑いよなぁ、やっぱり。長門は暑くないのか? 「へいき」 ページを繰る手を休めることなく平然と予想通りの回答を口にした長門をしばらく眺めてから、俺は部室全体を見渡した。朝比奈さんがここに居ればお茶を入れてくれるのだが、残念ながら本日はまだあの愛らしいご尊顔を拝しておらず、したがって自分でお茶をいれるしかないのだが、朝比奈さんの御手によるのでもなければこの暑いのに熱いお茶など飲む気にもなれず、そういえば冷たいお茶があるかもしれないと気付いた俺は一縷の望みを託して冷蔵庫の扉を開いた。 「ジュースか……」 残念ながら朝比奈さんお手製の冷たいお茶は影も形も見えなかったが、代わりにと言うべきか紙パックのオレンジジュースが鎮座していた。さて、誰のだろう。 「長門のか?」 「ちがう」 「朝比奈さんじゃ」 「ない」 当意即妙のやりとりに気を良くした俺は、紙パックを手にとると冷蔵庫の扉を閉じた。パックについているストローを外して突き刺す。ん、人様の物を盗っていいのか、だって? ああ、そりゃ大丈夫だ。長門の物でも朝比奈さんの物でも無いと解った以上、問題ないのさ。仮に古泉のだったら良心など全く痛まないし、最悪でも賭けの対象にしちまえば既に勝ったも同然だ。まあハルヒだったらさぞ大騒ぎするだろうが―― 「あー、暑い。みくるちゃん、冷蔵庫にあたしのジュースが……あっ!」 その瞬間、タイミング良く、ドアを開けて入ってくるハルヒが俺の手元を見て目元を吊り上げる。鞄を机の上に放り出して冷蔵庫に歩み寄り、中が空であることを確認すると俺の眼前にツカツカと詰め寄り、ジェリーを追い詰めるトムのような表情で凄んだ。 「ちょっと、キョン! あんた、何勝手に人のジュース飲んでんのよっ!」 暑かったからな。大体、おまえだって人のを勝手に飲み食いしまくってるじゃねーか。弁当とかコーヒーとか。そう俺が反論すると、痛いところを突かれたのか一瞬ひるんだような表情を見せたハルヒだったが、すぐに体勢を立て直すと、 「いい? あたしはSOS団の団長なの。つまり、あたしがこのSOS団の法であり、秩序なのよっ! よって当然、団員たるあんたの所有物もあたしのモノなのっ」 どこの宇宙大帝だ。断じて否だと言ってやりたい。と、ハルヒは俺の手から紙パックを取り上げた。抗議の声をあげる間も無く、ハルヒはストローを咥えてチュゴゴゴと一息で飲み干しやがった。勿体無い。 「半分くらいしか無いじゃないっ」 演習後のビールを楽しみにしていたのに副長に飲まれてしまった砲術オタクの艦長みたいな表情でハルヒが不平を漏らす。当たり前だ。俺が半分飲んでるんだからな。ついでに言うと俺も全部は飲めなかったのは一緒だ。 「代わりを買ってきなさいよ」 怒りも覚めやらぬままハルヒが言った。まあ、気持ちは解る。仕方ないので買ってくるかと手を差し出した俺にハルヒが、 「何よ」 いや、ジュース代。 「ふざけんなっ」 部屋の外に叩き出された。やれやれ。 ……今度はグレープフルーツジュースにしよう。陳列されたジュースを前にしてたっぷり10秒程も思考した末に決断を下した俺は紙パックを手に部室へと舞い戻り、再びドアを開ける。室内には長門とハルヒに加え、朝比奈さんとついでに古泉の姿もあった。 「ちょっとキョン、なんで飲んでるのよっ!」 なんでって、さっき半分しか飲んでないからだ。団長席の前に立った俺は、ストローを突き立てて半分ほどを飲み終えた紙パックをハルヒの前に置いた。ほれ、これでチャラな。 ハルヒは「う〜」と唸ったかと思うと俺の背後に一瞥をくれて、紙パックを手に取りまたしてもチュゴゴゴゴと一気に飲み干した。少しは味わって飲めよ、勿体無い。 「みくるちゃんっ! お茶淹れてちょうだいっ!」 ハルヒは紙パックを叩きつけるように机に置くと、腕を組んでそっぽを向いたまま朝比奈さんに命ずる。 「は、はいっ」 何か言いたげな古泉の微笑を意図的に意識から排除しつつ、何故か頬を朱に染め口元を手で抑えて俺たちのやり取りを見守っていた朝比奈さんがいそいそとお茶の用意を整えるのを眺めながら、俺は朝比奈さんのお茶も捨てがたいが口の中に残るグレープフルーツの味をさっさと洗い流すのも惜しいと思っていたりする。ハルヒには別の考えがあるようだが。 だがまあ、たまには甘酸っぱいのも悪くないだろ?
はい、単に間接キスをさせたかっただけです。そういうのハルヒは気にしない風味だけど、「今」のハルヒとキョンなら果たしてどうだろう……