うららかな春。俺たちは相変わらずSOS団の活動にいそしんでいた。ようするに今日も不思議を求めて街をさすらっているということさ。午前中はツマランことに古泉と男二人で時間をつぶし、今は長門と二人で図書館だ。とは言っても、集合時間が近い。そろそろ移動しないとな。
「おい、長門。そろそろ行かないと時間に間に合わんぞ」
このままだとまたハルヒにどやしつけられそうだ。長門は俺の声に顔を上げるとマイクロメーターでようやくという程度のうなずきを返し、本を抱え込んでカウンターへと向かって行った。
駅への移動中、俺も長門もひたすら沈黙を友に歩いていたのだが、突然長門が口を開いた。
「あなたに頼みがある」
なんだ?
「今日、これからあなたの家に行きたい」
……俺は長門の意味深にとれなくもない台詞をどのように解釈すべきか、たっぷり数十秒ほど固まってからようやく声を絞り出した。
「それはいいが、何でだ?」
「あなたの家の猫を観察する必要がある」
ああ、なるほど。俺は首肯した。ついこの前の幽霊騒ぎで、長門は珪素なんとか情報素子だかなんだか言う幽霊モドキをシャミセンに封印したんだったな。全く、いつも長門に頼りっぱなしで申し訳ないが、面倒の種を封印された猫を飼う俺にも誰か申し訳ないと思ってくれる人は居ないものかね。しかし、わざわざ来てもらうのも済まないな。そう思った俺は深く考えもせずに、
「それなら家でメシ食っていくか?今からじゃ帰りの時間が遅くなっちまうだろ」
長門は漆黒の瞳を俺に向け微かに逡巡するような表情を見せていたが、ナノ単位の頷きを返して「そう」と答えた。
それから何事も無く駅に辿り着いた俺たちは、ハルヒの解散宣言と共にめいめい帰宅し、ただし長門は俺と一緒に我が家に向かっている。さて、長門が家でメシを食うとなればその分夕食を増量する必要があり、当然手遅れになる前に連絡しなければならず、携帯を手に自宅の番号をメモリから呼び出そうとしたところで不覚にも気が付いた。
この状況を第三者から見たら、女の子を自宅に連れ込んでいるようにしか見えないのではないだろうか。長門は気にしないだろうし、妹は喜ぶだろうが。つい、ミヨキチ達のノリで気軽に扱ってしまった。お袋が浮かべるであろう表情を思い浮かべて自らのうかつさを呪う。しばらしの逡巡の末に俺は携帯の発信キーを押しこんだ。
予想通り、さんざん冷やかされた。くそ。
しばらくして自宅に到着すると、俺はポケットの鍵でドアを開け長門を招き入れた。家族に遭遇する前に急いで長門を自室に押し込む。所詮、面倒な局面を先送りしているだけなのだが……。部屋に入ると、シャミセンがベッドの上でゴロゴロしていた。俺達に一瞥くれたかと思うと興味ないとでもいうようにそっぽを向く。俺は長門に適当に座るよう促した。長門は頷くとベッドの上、シャミセンの傍らにちょこんと腰掛ける。長門がシャミセンの額に手を伸ばした瞬間、
「キョン君、お客さん来てるの?」
ドアが叩きつけるように開かれ、妹が飛び込んできた。こら、ノックぐらいしなさい。
「有希だーっ!」
一切の手加減無く飛びかかる妹の勢いに押されて、長門は仰向けに倒れていた。妹はそのまま長門の胸に顔をうずめて抱きついている。オイコラ。
「今日は遊びに来たの?ご飯食べていくの?お泊り?」
慌てて妹を引っぺがす。アホな事を言ってるんじゃありません。長門はシャミセンを見に来たんだ。メシは食っていくけどな。妹は俺の説明を聞いているのかいないのか、にへらと笑みを浮かべると「ごゆっくりー」と言い残して部屋を出て行った。やれやれだ。すまんな、長門。
「いい」
無表情で答える長門の膝にいつのまにやらシャミセンが鎮座していた。目を細めて、長門に撫でられるままになっている。で、どうだ?シャミセンの具合は。
「問題ない」
そうか。俺は安堵の吐息を漏らすと、妹が飲み物とお茶菓子を運んで来るまで飽きることなく長門とシャミセンを眺め続けていた。
「今日は手間をかけさせて済まなかったな」
俺は自転車から降りた長門に詫びを入れた。あの後、俺は好奇心を隠し切れないお袋の視線と質問に晒されながらの夕食をなんとかやり過ごした末に精神力を使い果たし、「いつでも遊びにいらっしゃい」というお袋の声を背に長門のマンションにほど近いこの駅前公園まで二人乗りして来た訳だ。
「お邪魔したのはわたし」
首をわずかに傾けて長門が声を発する。もしかして遠慮しているのだろうか。俺は長門の浮かべている無表情を見ながら、夕食前の長門に妹とシャミセンがじゃれつく様を思い出していた。案外サマになっているその姿に、俺は自分だけでなく、長門もまた心の平穏を得ていたように思えたのだ。
「なあ、長門。お前が良かったらだけど、また遊びに来ないか」
長門は身動ぎも一つせず、ただパチリと瞬きした。ああ、気にしなくていいぞ。妹も喜んでたしな。お袋もシャミセンも大歓迎だ。きっと。
「そう」
俺の顔をしばらく見つめていた長門は、そうつぶやくとフェムト単位でうなずいた。
「あなたの猫は、定期的に経過を観察するのが望ましい」
これが長門流の照れ隠しの婉曲表現、というのは自意識過剰に過ぎるのだろうかね。だが、俺としては正直悪い気はしなかった。お袋に冷やかされるのはともかくとしてもさ。
翌々日、俺は文芸部室へと向かっていた。相変わらず授業があろうがなかろうがSOS団の活動は無休な訳だ。ドアを開けると俺以外の団員は勢ぞろいしており、そろって俺に注目しているのはいいとして、その視線の質が俺の脳内で危険信号を励起していた。
「随分遅かったわね、キョン」
剣呑な視線と口調でハルヒが口火を切った。口元をひくつかせながら続ける。
「一昨日、あんた有希と何してたの?」
その瞬間、血の気が引いていく音が聞こえた気がした。何故それを?と問う声が出ない俺に、ハルヒは例のハカセ少年が学習塾の帰りに俺達を見かけたのだと告げる。いや、それはだな。
「有希、何かされなかった?」
無表情に座る長門の目を覗き込むようにハルヒが問う。俺は何もしとらん。シャミセンや妹とじゃれあってメシ食っただけだ。だが説明するとなると面倒なことになる。とりあえずシャミセンに会いに来たのは事実だが、本当の理由を言うわけには行かないし――その時、長門が口を開いた。
「はじめに、ベッドの上で押し倒された」
空気が止まった。
俺は声帯から声を絞りだすようにそれは妹の仕業だと弁明しようとしたが、ハルヒがそんな余裕を与えてくれるはずもなく、いきなりネクタイを掴まれたかと思うととてつもない力で締め上げられる。
「ぐぇ、お、やめ、のぉぉぉ!」
「あんた、よくも有希を毒牙にっ!」
説明しようにもまともに声もでず、俺の喉元を締め上げるハルヒの腕をのけようと掴んだものの全くはずせそうに無かった。なんて莫迦力だ。くそ、もうもたない……
「どうせ嫌がる有希を無理矢理押し倒したんでしょ! キョン、あんた死刑よ死刑!」
許容も無く、慈悲も無いハルヒの絞め技に薄れ行く俺の意識が最後に捕らえたのは、何が起きたのかいまいち分かっていないように首を傾げている長門の姿だった。