涼宮ハルヒの借用

 さわやかな風が夏の終りを告げ、秋の到来を感じさせるある晴れた日のこと。
 グラウンドに銃声が鳴りひびき、弾かれるように駆け出した一群を俺は注視していた。正確には横一線からいち早く飛び出したハルヒを、だが。先頭走者であるハルヒは『天国と地獄』の軽快なメロディをBGMにぐんぐんとリードを広げ、その走りと来たらカモシカというよりむしろ武田騎馬軍団の赤備に選ばれた駿馬のごとき迫力であり、ただいま行われている女子100mにおいても不要なまでのエネルギーを全身から発散して爆走の限りを尽くしているのだった。
「はえーな」
 隣のイスを占位している谷口が言わずもがなの感想を口にした。ああ、何しろハルヒだからな。
 そのままハルヒはぶっちぎりでテープを切り、クラスから沸きあがる歓声に不敵な笑みを浮かべつつ振り返ると手にした一着のポールを高々と掲げる。
 日本中の神々が出雲へと出払っているこの十月は読書や食欲のみならず、運動に関しても旬の季節であり、要するに今日は俺たちが入学して二回目となる体育祭の当日であった。


 競技を終え、意気揚々と帰還するハルヒの姿を目で追いつつ俺たちは駄弁っていた。
「涼宮さん、ずいぶん気合が入っているみたいだね。この分だと今年も優勝かなぁ」
 国木田の言葉に俺はふと去年の光景を思い出す。前回もハルヒは走りまくってクラスに大量の得点をもたらしていたっけな。だが、あの時のハルヒはまだクラスから孤高を保っていた。今俺の目の前にある光景は去年とは少し違っている。感慨も湧こうというものだぜ。あのハルヒがクラスの女子達に囲まれて機嫌よく応じているのを見ればな。
「ああ、涼宮がガンガン得点とってるからな。男子の得点が悪くなけりゃいいセンいくだろーよ」
 俺は黙って頷くことで谷口に賛同の意を示し、グラウンドに流れるアナウンスを耳にして重い腰を上げた。
『借り物競争の出場者は待機スペースに集合してください。くり返します、借り物競争の……』
「キョンーっ! 絶対勝ちなさいよーっ。1位じゃなかったら死刑だからねっ!」
 ハルヒの檄が俺の背中を打つ。勘弁してくれと言いたい。大体、借り物競争と言えば、ロクでもないシロモノを指定されて途方にくれることもしばしばの、どちらかといえばイロモノイベント系であって、そこまで頑張る理由も必要もグランド中の何処を探しても見当たらないはずだろう。
 しかしながらそのような声がハルヒに聞き入れられるはずもなく、何しろハルヒは負けず嫌いなことこの上なく、まかり間違って手を抜こうものならどんな目に合わされるか想像もしたくないのだがしかし死刑って。
 足を引き摺るように待機スペースへ移動しつつ、俺は背後から飛んでくる大声に肩をすくめる。これが仮に朝比奈さんの可憐な美声で応援してもらえるというのであれば、たとえ雨が降ろうが槍が降ろうが俺は忠誠と献身をもって任務を完遂しえること疑いなく、勝利を祝福する朝比奈さんのキスに走り始める前からランナーズハイになることは確実であるのだが、現実はといえばもはや脅迫としか思えないハルヒのがなり声に押しつぶされんばかりの有様で、これで士気が上がる奴がいたらお目にかかりたい。
 出走者待機列に着いた俺は他の連中に倣って腰をおろした。クラスの座席列へと視線を向けると谷口と目が合う。なんだよ、その憐憫と嘲弄の混合した表情は。不快になって視線を転じると、あいかわらず何かをデカイ声でわめき散らしているハルヒの、敗北の可能性など微塵も考えていないであろう満面の笑顔がフレームインする。やれやれ。



「位置について、ヨーイッ、」
 パァンと景気よく鳴りわたる号砲に、俺および同組の出走者達は一斉に駆け出した。運動が著しく苦手そうな奴らが脱落していくなか、俺は残りの連中といい勝負の走りをしている。まあなんだ、あまりに無様な結果だと格好悪いしな。俺たちはタッチの差で次々と封筒を掴み取ると、収められた紙を広げながら足を踏み出そうとして――俺はその場に固まった。
 俺は目を瞬かせて記された内容をもう一度確認すべく小声で読み上げた。だが、それで内容が変わる訳も無い。脳内から条件に該当する対象を検索し――コンマゼロイチ秒で検索を済ませて自分のクラスへと向かって走り始める。逡巡している余裕は無かった。全ては勝利の為、ひいては俺の生存の為だ。なぜこんな厄介な対象が俺にあたったのかは後で古泉にでも聞けばいい。さぞ嬉しそうに解説してくれるだろう。
「ハルヒっ!」
 全力で走りながら、大声で叫ぶ。名前を呼ばれたハルヒはキョトンとしていたが、尚も駈けつつ手招きすると列から歩みだしてきた。ああもう、早くしろ。
「なによ、キョン。あたしの――」
「来いっ!」
ハルヒの元に辿り着くや否や、手を取ってゴール目指して駆け出す。
「ちょっ、ちょっと! 待ちなさい、キョン!?」
ハルヒの抗議を無視し、周囲からあがるどよめきと歓声を耳からシャットダウンしつつ、俺はハルヒの柔らかく暖かい掌を引いて全力で駆け続ける。そういえばハルヒの手を取ってグラウンドを走るのもこれで二度目だっけ。あの時は世界に二人きりで二度と御免な体験だったが、さて衆人環視の元に走り回るのとどっちがマシなんだろうね。



 俺はハルヒの手を引きながら、かろうじてトップでゴールに駆け込んだ。とはいえ、借り物が指定通りかの最終チェックが未だだ。審判役の女子生徒に紙を渡す。その娘は受け取った紙切れに視線を落とし、顔を上げてハルヒをしげしげと眺めるといわくありげに俺に目を合わせる。横目でハルヒの困惑顔をさっと眺め、
「ああ、今証拠は見せられないが、間違いない」
 彼女が示した疑念に対して俺は断言してみせた。背後には続々と走者が到着しつつある。ここで駄目出しされると敗北は確定だ。
「少なくとも俺はそう思っているんだ。頼む」
 その言葉にびくりとハルヒの肩が震え、手にこめられた力を通じてハルヒの緊張が伝わって来た。そういえばハルヒの手を引っ張って今も繋いだままだったが、女子生徒は俺たちが握り合っている手に視線を合わせ、それから俺とハルヒとを当分に眺めた後で、
「解りました」
 彼女は笑顔を浮べながら続けた。
「きっとお似合いだと私も思います」
 ふう。思わず安堵のため息が漏れる。ゴールを告げるアナウンスが場内に流れ、わっと歓声があがった。やれやれ、どうにか死刑は免れたようだ。ハルヒ、これで満足したか……ハルヒ?
 返事が無いのを不審に思った俺が視線を向けた先には、頬を赤らめたハルヒが俯いていた。
「フン、あ、あんたが負けたらSOS団の沽券に関わるから、協力してあげたんだからね」
あ?ああ。まあお前のおかげだな。まあ脚力には不足は無いし、。
「そうじゃなくてっ! 本来なら、団長と団員は……でも、あんたじゃ適当な相手も居ないだろうから、仕方なくあたしがついてきてあげたんだから」
「ああん?何だそりゃ?」
「あんたの相手役をしてあげた事に決まってるでしょ。お、お似合いだなんて、本気に受け取るんじゃないわよっ」
 何を言ってるんだろうね、こいつは。俺は怪訝な表情を浮かべ――
「何よ、ニヤニヤしてっ」
 ハルヒに突っ込まれた。どうやら表情を抑えるのに失敗したらしい。仕方ない、ハルヒの誤解を解いてやるとするか。
「なあ、ハルヒ。俺の借り物なんだが、『ポニーテールの似合う子』って条件だったんだけどな」
「なっ、なによそれっ! あたしはてっきり……」
「てっきり、何だ?」
 俺は意地悪く訊ね返して、ハルヒが何やらモゴモゴと小声で反論しているのをひとしきり眺めてから、ハルヒに握られていない方の手を髪に伸ばして言った。

「何しろ、おまえのポニーテールは似合ってたからな」

先週行った防衛大で棒倒しが凄い事になっていた件。本気でケリ入れまくってたなぁ……
普通11月は学際シーズンだけど、防衛大の学園際は文化祭と体育祭を纏めて行う罠。